ゆかりちゃんマンハウス

ツイッターは @yukari_SGFJ

1カ月ぶりの更新なので調子がわかりませんという散文たち

始まる10の月と終わりに近づいていく20と23。

去年の自分を見返すたびに恥より生まれては消える自信

私はかなり面白いと、自分の中ではすごく思い返す。

ユーモアセンスが自分なのだから過去の自分が面白いのは当たり前だ。

目下、死ぬまでには「面白い」ともう少しだけ多くの人に思われながら太陽の下を歩けるようにだけ、生きている。

現実を生きるほうの生産的な自分と、ここに縋りつきたいほうの無生産な自分のベクトルは真逆で

二足の草鞋を履いているフリをしながら、こっちの草鞋は脱げている

現実を生きよ、それだけを生きることが出来ればどんなに楽か。そうか?

金玉のごとくぶらさがった自意識を抱えて歩くのも自分

生き辛いと嘆くことにもそろそろ飽きたと言い聞かせて、詭弁にしてみればどうだろう

 

このポエムめちゃくちゃ寒いぞ死んでまえやと思うのも自分

死んで 死んで 死に続けて対岸に渡ったころには自分は違う自分になれている奴になってみたい。

 

 

 ひと月ぶりの更新である。この日記を始めた頃に比べると、湧き上がる怒りや負の感情を受け止めるまでもなく、納得のためすぐさま捨ててしまうことが増えたような気がする。だから書くことや考えていることが本当はあるのに、言語化をしなくなる。初心を忘れていた。「ゆかりちゃんマンハウス」や「ゆかりちゃん新聞」を始めた頃のツイートを見返す。

そうだ。これは誰にも見向きもされないのであるから、なりふりを構う必要など全くないのだった。とはいえ、ここまで芽が出ない、はてなスターのひとつもつかない日記という事実には己の存在意義を問いたくなるのもやむを得ない。

 

 己を棚から下ろして見つめることがこの半年でだいぶ出来るようになった気がしていたが、どうやら根本は全く変わっていないようであり。危うく呑み込まれるところであった。

 

【新学期】

 2ヶ月という長すぎた夏休みが終わり、大学がまた始まって2週間目。まず眠たすぎる。帰ってからなにもやる気にならない。寒さも相まってそそくさと布団に入れば、次は朝。もはやオナニーすら面倒くさい境地に達しており、絵だの日記だの以前の問題である。

 

どないせぇと?

 

 今学期は毎日朝から授業がある。毎日である。そこいらの、数単位だけ落とした留年生と比べられては困るのだ。怠惰に次ぐ怠惰。自らを律せないまま成人した人間がどうなるかを、私を反面教師として役立ててもらわなければ私が救われない。卒論も残っているというから人生というものは面白い。これは私がマイナスからゼロに戻るための物語─────

 

 

【信用】

 大学へは変わらず片道1時間かけて歩いていく。最近はスズメガの幼虫を探しながら歩くのが楽しく、先日家に持ち帰った。部屋で袋に入れていたら、脱走していた。まだ見つかっていないので恐らく部屋のどこかで蛹になっているのかもしれない。冷静に考えてみる。理性の生き物といわれる人間さえ信用ならないのである。イモムシを信用し、蓋を少し開けていた私がいけなかったのだ。今死ぬことより怖いのは、扉を開けた軌道上にイモムシが這っていた場合、イモムシをすり潰してしまうことである。

 

【やりたいことはたくさん、ある】

 コミュニケーションが発生しなくとも、外へリーチするようになると考えることも自ずと増える。行き帰りでやりたいことがたくさん浮かぶ。いま最もやりたいのは、「インタビューのテイで中身のないことを言う」動画を作ることだ。見繕いエイターすぎふじゆかりの売り込みを、あたかも「みなさんご存じの」というテイかつ、リスペクトが込められた茶番を、したい。

 すごくやりたいので撮影の空想をしながらなんと言おうだの、とらぬ狸をするのだが問題がある。撮影してくれる人がいないことと、誰に頼めばいいのだということだ。

 人と人でなければ、本物の言葉は生まれない。とはいえ、数少ない友人に頼むのは違う気がする。内面の露出にはある程度距離感が必要であり、気心が知れているが故になんだか気持ち悪い予感がするのだ。「インタビュー」なのだから、仕事仲間みたいな距離感で、粛々と、滞りなく行われて欲しいのだ。近ければ近いほど手の内を明かしたくないというのは、兄弟間で下ネタを飛び交わしたくないのと同じと説明すれば分かってもらえるかもしれない。

 天邪鬼すぎるとは十二分に認識しているが、自分を卑下する気力すら今はないのが正直なところである。

 

 

【かつての同回生】

 10月に入ってから、ひとつの連絡がきた。過去に当日記でも言及した、去年卒業した同回生から「今度こそは食事に行こう」と。あれ以後、こちらから連絡をよこさず夏が過ぎ去ったのである。不義理である。人間関係におけるこういう裏切りを、これからの人生でも幾度も繰り返すのだろう。ひとえに怖い。希薄さ。意識の。

ratori-b.hatenablog.com

 自己弁護に走らせてもらうと、その同回生は完全には信用できない部分があるのだ。3年前、京大の学園祭に一緒に行こうと誘われ、友人が少なかった私はとても嬉しくなり、二つ返事で向かった。すると、「ちょっと紹介したい人がいるから」と言い、会議室に連れていかれる。?おかしいなと思った時には既に手遅れで、某学会の京大支部みたいなところに私をつれていきやがったのだ。私はその奥のブースで行われていた女装カフェに行きたかったことまで今、思い出した。

 こんなことが何度かあり、まぁ彼も優しいので過激派ではなく、私が入会する気がないことを承知した上で、気をつかいながら組織と私を繋ごうとしていたことは彼の名誉のために書いておかなければならない。ただ、拒絶を恐れるがあまりはっきりとはモノを言えない私だからだったのかもしれないとは、少し思う。

 そういうわけで、果たして本当にサシでの食事であるのかが怖いのである。もう月末に行くことになったので避けられないが、なにかあったらまたこの場で報告するかもしれない。

 

 

【録音してはみる】

 かねてからラジオをやりたい、と思い数年が経つ。そろそろモラトリアムに浸っていられるのも最後の機会であることの「重み」みたいなものが1日、また1日とのしかかる。だから先週ぐらいから意を決して、何回か録音して、喋ってみている。想像というのは想像にすぎず、現実での私は話すのが上手い部類の人間ではないことに、自分で気付いて自分で傷ついた。言葉を紡ぐスピードが、あまりにも遅いのだ。うまいこと言おうとするために費やされた時間というのはそう簡単に帳消しにはできない。それは放送事故であり、頭の中では次から次へ話せていた自分は嘘であったことに気付く。ましてや一人で録音してるもんだから、「いま何をいってるんだ」「お前(自分)ごときがそれに言及するな」という幻聴を味わうことになる。自意識はコミュニケーションだけでなく、自分に酔うことさえ許してはくれない。

 文章にするのと会話するのとは、明らかに受付時間が異なる。文字ならいくらでも考えてから、ベストを叩き込める。話すとなると流れに乗る必要がある。これは、会話はスポーツのように訓練しなければ身につかないことを表しているような気がする。圧倒的な訓練不足。

 もっと問題がある。一人喋り最大の欠点は、「ボケるならそれを自分で回収する必要があるが、それは恥ずかしい上に面白さが精神コストに見合わない」ということである。全ボケするにしても、困惑する人がいなければ成立しない。そもそも録音の波形に向かってボケても我に帰るだけで、なにひとつ面白くないのである。不安そうなボケほど不快なものはないような気さえ、してくる。

 これが何度か録音してはくじけてみて得た教訓である。もはや残されたのは詭弁や僻みの力に頼るパワープレイ。とりあえず近いうちにもう一度挑戦してみようと思う。「もう残り時間が少ない」ということに、全体重を乗せることにしてみる。

 

 

【ハマっている】

 数年前からではあるが、最近またラッパーの情報をみることが増えた。個人的なブームに周期があるのだろうか。一番好きなラッパーは呂布カルマであり、それはおおよその日陰者の大学生がそうなのだろうが、私もその例に漏れない。2年前、『New value』という曲の「自分のことなら自分でなんとかできなきゃ大人じゃないってことだな」という歌詞に、非常に重い打撃を受けたことがある。今でも直視できない(聴くだから意味が合わないが)というか、聴くのが怖い曲である。

 一方で、『問答無用・改』の「例えばあいつは大金かけてる 例えばあいつは人生かけてる 例えばあいつ悩んでハゲかけてる じゃあなんもねぇ俺は何賭けれる」という歌詞には感銘を受けた。個人的背景が乗っかった感想を書くのは解釈の自由を奪いかねず、野暮だと思うのであまり書きたくないが確実に影響を受けていることだけ言いたい。

 

 

おわり