ゆかりちゃんマンハウス

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ひたすらに今読んでいる本をひけらかす4000字 -2023/09/07日記-

2023/09/07

 

※注意※ すごく長いです。

 

 今日も大学に行った。勉強をしに行くというよりはもはや、「向かう」ことを目的としているような感じになっている。昼に出発して、図書館が5時に閉まるのでせいぜい2時間強しか滞在しない。その上、往復2時間を歩くのでめちゃくちゃ疲れる。読書しに行っているのか、疲れて眠りに行ってるのか分からない。

 

 いま読んでいるのは図書館で目に入った『獄中記』という本。議員の鈴木宗男の関係者らしく、逮捕の煽りを受けた佐藤優が拘留中~裁判中に記した日記である。「日記」というジャンルであること以外、とくに考えもなく手に取って読み始めたのだが、最近読んだ『人生はそれでも続く』(新潮新書)という本の中に、鈴木宗男の秘書だったムルアカの現在が描かれていたことを思い出した。それだけでなく、ついこの間ムルアカが急死したとニュースで見たばかりである。なぜ無意識に、鈴木宗男あたりを選び取っている(選び取らされている)のかが不思議で仕方がない。この世の事象のほとんどは、いかようにも共通性を見いだせるというだけのことなのかもしれないが。

 

 ほかにも3冊、同時に読んでいる本がある。『自省録』マルクスアウレリウス、『母性社会 日本の病理』河合隼雄、『金閣寺三島由紀夫 の3つ。明らかに物事を俯瞰してのみ見ようとする努力、現実逃避のツールであるような気がしてならないセレクトである自覚。恐らくこの世で生きていく上で最も価値があるのは現実に干渉し、経験することであり、読書で頭にだけ武装することではないだろう。とはいえ、現実にうまく干渉するためには教養も欲しいので完全に読書の価値を否定できない。このバランスはかなり難しい。難しくさせるのは、ひとえに私の主観で見ている現実が体験型アトラクションやテーマパークではなく、命を脅かす大海原あるいは肉食獣潜むジャングルだからだろう。TPSに視点切り替えできればその錯覚は消え去るかもしれないが、あまりにも生きている実感がなさそうである。現実が怖いので、経験せず、こういった本に共鳴を求めているだけなのかもしれない。この先の一生、自信など生まれないような気がする。

 

 

 『自省録』は五賢帝最後の男、マルクス・アウレリウスが自分を戒めるためにしたためた手記である。最近になって、相当に理想と現実に板挟みされながら生きた人間(家系上皇帝にならざるを得なかった男であり、もとは哲学者を目指していた)であると知り、興味を持った。例えば

【これ以上さまよい歩くな。君はもう覚書や古代ローマギリシア人の言行録や晩年のためにとっておいた書物の抄録などを読む機会はないだろう。~むなしい希望を棄てて許されている間に自分自身を救うがよい。】

といった文章がいくつも出てくる。これは私の解釈であるが、哲学の道にかなりの未練(むなしい希望)がありながら、皇帝としての政治にこそ「自分自身を救う」手立てがあるのだということを言い聞かせているように思われる。

 このような葛藤は極めて人間的であり、その他の教訓や恐らく本人が感じたであろうことを「○○せよ、○○するな」という語気で綴られている。そこには普遍的な価値を有する───特に人間同士の関わり合いにおいて 文言が数多くあり、いかに彼がそうあろうとしたかを感じざるを得ない。まだ途中までしか読んでいないが、果敢に現実にコミットしていくことのみを正義とする、そう信じようとしているような印象を受ける。また彼はよく「宇宙」という言葉を用い、人間ー社会ー自然ー神ー宇宙 という図式でもって全てが繋がっていること、この大きなシステムにおける役割を全うすることの正義を書き残している。スピリチュアルにもとれるが、要約すれば「与えられた仕事を片手間でやるな、ただひたすらに全うせよ」と言い続けているのであり、あくまで主戦場を現実に見出している。そこにおける秩序を守ることや人間を愛すること、そのためには自己を律し、堕落せぬようにおれと自分に言い聞かせている点、決して即物的な態度では現実を生きない姿勢がみてとれて面白い。

 

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 『母性社会 日本の病理』は心理学者の河合隼雄が70年代に書いたものである。河合隼雄を知ったのは前学期の授業であり、夢や無意識(深層心理)を手掛かりにした心理学であるユング派の一人である。そのため、最初はマユツバ物の眼差しを向けていたのだが、なぜか興味を惹かれ、いくつか本を読むうちに完全に「あり」と思うようになった。

 個人的に解釈したこととしては、言語や国家(社会)という我々を取り巻く外的要因は無意識の領域にまで浸透しており、例えば日本的・西洋的な感覚はその土地に生まれ、関わった結果である。それならば、日本人であれば無意識のビジョンである夢にいきなり、思いがけず仏教的要素が出てくる(さらには人類普遍の要素という場合もある)のも何ら問題ではない。日本人が「良い」と感じる価値観や、私たちが生きる中で気付くほぼ全てが、仏教の経典や教義の再発見なのではないかというのが、彼の研究の主張に対する私の抱いた感想である。西洋であればキリスト教義の再発見ということになる。

 

 この本は、心は「男性原理」「女性原理」のバランスの上で成立しているものであるという考え方に基づいている。日本人は女性原理に比重が重すぎるという指摘と同時に、西洋は男性原理に比重が重すぎるという指摘をしている。女性原理の特徴を「つなげる・平等」と表現している点は、西洋に比べて自己主張をせず、平和的解決を最優先する国民性に代表されるだろう。あるいは社会保障の手厚さや「なんとなくやっていく」ことのうまさ。これは相当な武器であるが、精神において筆者は男性原理の弱さを危惧している。

 

 この女性原理の比重の重さは、精神の成長において自我の形成を阻害し、「永遠の少年」を生み出す原因になるという箇所があるのだが、その物言いが直球ストレート、読むのが辛かったので紹介したい。

 

彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼らは自分の特別な才能を曲げるのが惜しいので、社会に適用する必要はないのだと自らに言い聞かせたり、自分にぴったりとした場所を与えない社会が悪いのだと思ったりしている。ともかく、いろいろ考えてみるが、いまだその時が来ない、いまだ本物が見つからない、と常に「いまだ」の状態におかれたままでいる。

 

ところが、ある日突然、この少年が急激な上昇をこころみるときがある。偉大な芸術を発表しようとしたり、全世界を救済するために立ち上がる。そのときのひらめきの鋭さと、勢いの強さは時に多くの人を感嘆せしめるが、残念ながら持続性をもたぬところがその特徴である。~彼らは今日はマルクス、明日はフロイトと華々しく活動するが、その間に連続性のないことを特徴としている。

 

……人の心がないのか。こんなこと書くのか。誹謗中傷の一歩手前だろこれ。という感想と同時に「わかる!!!!!」という気持ちも同居する。要するに臆病で、フラフラと、あってないプライドを大事に大事にして生きている奴だということである。こうして、言語化すれば少しは客観視できるのが唯一の救いである。私には彼らを咎める権利はない。私がまさしくそうだという自覚があるからである。ただ、もし同じような気持ちで生きてる奴がいるなら、それをわかるのはただひとり、私だ。一緒に頑張ろう、一緒に真人間になろうと言う権利は私にはあるんじゃないか。ひとつ言うと、「社会のせいにする」という文言は6割ぐらいは社会のせいだろうがとは思う。日陰で生きてきた奴がいきなり広葉樹に育てるわけがない。コケかシダ植物になるに決まってるだろうが。日当たりのよさを選ぶ余地は自我の形成段階である未成年まででは希薄だろうが。怒りもあるが、いつかこの毒の針が抜けてくれる日まで、現実を生きて、人間を生きるのを諦めてはいけないんだろう。

 

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 『金閣寺』は一回読んだけど、もう一度読んでいる。戦後日本で実際に起きた、お坊さんが金閣に放火した事件を元ネタにした文学である。このように元ネタはありながら主人公の心理描写=三島由紀夫の暗~~~い人間性であるという想定ができるのだが、その描写がマジなのですごく理解できる。先に述べた「永遠の少年」のようなメンタリティであるからだ。すごく簡単に要約すると暗く、イタイ奴なために最後、金閣を燃やさなければという結論に至る、その過程が三島由紀夫の暗くイタイ一面と共鳴しながら描かれている、そう感じた。主人公は吃音であるので、そのコンプレックス度合いは私以上だったろうなということも感じざるを得ない。

 

人に劣っている能力を、他の能力で補填して、それで以て人に抜きん出ようなどという衝動が、私には欠けていたのである。~暴君や大芸術家たらんとする夢は夢のままで、実際に着手して、何かをやり遂げようという気持ちがまるでなかった。

 

他人はみんな証人だ。それなのに、他人がいなければ、恥というものは生まれてこない。~他人がみんな滅びなければならぬ。私が本当に太陽へ顔を向けられるためには、世界が滅びなければならぬ。……

 

 このあたりは割と共感できてしまった。また、三島由紀夫が果たして暗鬱な人間だったのかは計り知れないが、そうであるなら親近感を抱くし、そうでないなら感情模倣の精密さに驚く。難しいので全ては理解しきれなくても仕方ないと思いながら読んでいるが、終始なんとなく咎められない、共感まではいかずとも同じ線の上に立っている感覚がある。このパーソナリティから脱却できなかった人間の結末であるということや、劇場型犯罪あるいは無敵の人と無関係ではないような気持にさせられた。精神の調子が良いときかつ、暗い人間にはぜひ読んでみて欲しいと思う。先日一緒に大阪に行った、感覚が似ている友人にも読んで欲しかったので勧めたら、いまはメンタルがやられているので読めないと返事された。

 

 

 気付けば4000字も書いている。しかもひけらかしである。もうリアルで他人に怒ることも最近はないんです……遠ざかっていきやがるんだ……憎かったのは近かったからなんだ……いまは夏休みだから、大学はすごく静かなんだ……。