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「サイレント自己顕示」~お前らは最高なんだよ~ 2023/06/28日記

2023/06/28

 

 水曜。正直なところ、日記にするほど新鮮な体験がなくなってきたのでモチベがない。そもそも、一般人の1日の出来事に興味など誰が持つのか。そんな暇(いとま)はなく、毎日を過ごすorやり過ごす人達よりも暇(ひま)な俺とは。

 

 単刀直入に言うと、有名になれたなら。

 

 自惚れるんじゃないと思うと同時に、どうにか価値を、自己を見出してくれと思う。

 

 それは、現実-リアル-で会話イベントが起きないから、自己の発露をするタイミングがないから。

 

 ここに書くしかない。文章なら一方通行で済むからというのも大いにある。インターネットでも当然、自分は自分であるからコミュニケーション能力に欠けている。

 

 こういうことを、前は書かなかった。眼前の「怒り」にただ反応していたあの頃とは、自覚はないものの違う自分だということ。良いことなのか悪いことなのか。だからさ、誰も興味ないってば、、、これはこれで見てくれている人に失礼だろうが。

 


 最近、自分の中でスマホ不要説が浮上してきている。移動中や手持ち無沙汰なときに開くが、暇すぎる。Twitterをすぐに閉じ、パズドラのログインボーナスだけをもらい、ヤフオクとメルカリで「菜々子解体診書」の新着出品をチェックする。またTwitterを開く、閉じる。

 以上。違う、リアルを誤魔化しかけたが、このブログのアクセス数も必ずチェックしている。

 

 昔は一生Twitterを開いていたような気がするが、あれはなんだったんだ。リアルをかなぐり捨ててたんだろうが。

 

 そう思うと、良い兆候なのかもしれない。そうか?減った時間で人と関わるようになった訳ではないからそうでもないだろう。

 

 読書である。新書、高すぎる。800円もするのにムカつく。数ある中から選び、買う。無闇には買えないから、どれにするか厳選する作業。懐かしい感覚かも、なんか。なけなしのお小遣いでお菓子を選んでいた子供の頃に近い。

 

 ここでは金銭的なものを指すが、「満たされなさ」から生まれる味わいも確かに、ある。

 

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 前回の記事で「自意識過剰である」ということを書いた。そのあとで、一方では自分で作ったTシャツを着て外出していることに気付いた。矛盾している。

 

 他人の目を気にするなら無地を着るのが合理的であるから。

 

 自分でも不思議だが、「痛い」奴だと思われるかもしれない、とは特に思っていない。言語化してみると、自分でも自分勝手な解釈だなと思う。

 

 うまく言えないが、「サイレント自己顕示」とでも言うべきことをしている。

 

 早い話がツッコミ待ちである。だからといって、安易にツッコんで欲しくはない。だからといって、無視されるとショゲる。

 

 矛盾である。

 

 この行為は、本質的には露出魔と同じである。「見てほしい」という願いがそこにあるから。法に触れるか否かは違うが。

 

 ただ、もし俺みたいな「満たされなさ」を抱えている奴らが、満たされようとして最終的に法に触れてしまっているとしたら。

 

 他人事ではない気がする。自作Tシャツを着るにとどまっている分には問題ないが、分岐点の手前に立っているともいえるかもしれない。

 

 

 外見や行動で、自己顕示を必死で満たそうとする人は美しい。

 

 具体的にはセーラー服を着ている無害なおっさんや、河川敷で石を積んでいる無害なおっさんである。地獄に堕ちることを見越して、賽の河原の練習試合をしているのだろうか。お前もうおっさんだろ。いや、精神的には、あるいは。

 

 共通点は「無害」である。決して自分から社会に仕掛けない。度胸がないのか何なのか。少なくとも自分はそうである。だからツッコミ待ちなのである。

 

 そこに、可愛げというか愛おしさというか、ひいては親近感というか、「キモ」「痛い」と一蹴するにはあまりにも惜しく、味わい深いものを感じる。

 

 私はこれを「静かなる自己顕示」、あるいは「愛すべき自己顕示」と勝手に名付けている。

 

 俺たちが互いに交わることは、たぶんない。お互いツッコミ待ちだからである。こんなに人間らしいことがあるか。最高なんだよ。勇気はないが、変に行動力はある。反応してほしいが、卑下は絶対にされたくない。それが怖いから、本当は反応するなと思っている。

 

 俺たちは、SIMPLE2000シリーズ『THE 人間』なのである。決してSIMPLEではないが。むしろCOMPLICATE。矛盾は美しい。愛おしい。

 少なくとも、私はそう思う。

 

 では河川敷のハトに餌付けしてる年寄はどうなのか。あれは自分から仕掛けてしまっている。法に触れているからアウトである。

 だが、「人間には求められていないが、こいつら(鳩)は俺を必要としている」と思っているだろうということに共感はできる。納得は、ごめん。

 

 ちなみに、ここでの「美しさ」は社会や現実では「醜さ」と翻訳される。私が勝手に美しいと感じているだけで、普通にキモいし痛いというのがこの世の認識を占めているだろう。

 

 それでも、「現実にコミットしようとする」姿勢はやはり美しいと思う。評価すべきだと思う。この社会に価値を見いだされようと、ほぼ無駄かもしれない努力をしている。リアルを捨てずにである。しかも、法に触れることなく。これは、強さである。リアルを捨てる奴よりはよっぽど強い。

 

 ここの線引きは本当に大事だというのは、同じ綱を渡っていると自覚しているからかもしれない。狂ったとき、とんでもないことになるタイプの人間予備軍であることはほぼほぼ言えることもまた、先例があってしまうのだから。