ゆかりちゃんマンハウス

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幸福という猛毒 2023/07/30日記

2023/07/30

 

 最高気温と感覚麻痺、通算5度目の学期末。疲れた疲れた辛い辛い。逃避したさと変われない不甲斐なさに板挟みされる自己。嫌だとか好きだとかが、自分が無ければ全てをニュートラルに受け入れられるのに。そうなのか?自分が無いのもまた、才能。

 

 つらい。もうしんどいかも。学期末だから先週はテストや課題で余裕が無かったので、日記を書く気が起きなかった。本来はそれも込みで、予定として組み込むべきなのにそれはまだできない。自分事だから、言い訳もどうにもできてしまう。人気があって、毎日100アクセス以上みられていて、更新がないとブチギレる人がいたら話は別かもしれない。外的圧力でしか自分のバランスを取れない。未だに。事実は事実であるが、嫌すぎる。これを書くよりも前に、やることがまだあるのに、これを書いている。逃避先が読書や日記に変わっただけで、ゲームに逃げていた昔と大して変わらない。最初から「頑張れない側の人間」だったのか、そう成り下がったのかは自分が決めることなのですか。でも例えば医者に「生き辛さ」認定のお墨付きをもらったとして。としてよ、そこにあぐらをかいてしまいそうな自分の弱さを予見している。この怖さがすごくある。「自分だけじゃなかったんだ」という安心よりも、「自分だけじゃないのかよ」というある種の称号、唯一性の剥奪という被害妄想さえ、ありえるかもしれない。弱すぎる。助けてほしいが、助けてほしくない。正確には同情されてはたまらない。共感ならあるいは、救われるかもしれない。

 

 

 全部、暑すぎるのが悪い。なんなんだよ最高気温38度って。古生代か(古生代はもっと暑い)。それでも、先週は1時間歩いて帰った。夕方の太陽が一番ヤバイ。感覚で言えば毒みたいに、ジワジワと体力を奪ってくる。あと眩しい。かといって、日没まで待ってから河川敷を歩いたら、花火をしている人たちがいる。「暑さ」と「相対的に際立つ孤独」を天秤にかけたとき、前者のほうがダメージが少ないので、夕方に帰ることになる。

 

 最近はずっと、昼食のお弁当を夕方4時とか5時に食べている。大学の敷地内でお弁当を食べるのが怖いから、帰り道の河川敷にあるベンチで食べている。空き教室はクーラーがついてないし、食堂や購買には今学期は入ったことがない。たぶん、卒業まで近づきもしないと思う。購買の近くのトイレの洗面所で焼きそばの湯切りをするカス大学生や中央広場で叫ぶキチガイの運動部。死ぬべき奴ほど、この世界を我が物顔で生きている。どうも最近この世界を愛せない。自分が世界を敵視しているせいである?

 

 お弁当の話に戻りますが、河川敷にあるベンチも猛暑のせいで座れたものではなくなった。アリが足に上ってくるのも、ちょっとやめてほしい。だから駅まで行って、屋上の暗~いスペースで食べている。もう言っちゃうが、京都駅。

 

 先日訪れたらその屋上がリニューアルされていて、芝生の敷かれたキッズスペースに様変わりしていた。親子が木製の遊具で遊んでいたり、カップルが芝生で膝枕したりしている空間に変貌していた。今までは明らかに人生に満足していないジジイやババアや、私みたいな孤独者が引き寄せられる場所だったのに、急に社会的貢献度MAXなハッピーゾーンになっていて困った。でも、来て「ッあっ…」と思って引き返す方が恥ずかしいと思ったのでそこでお弁当を食べた。

 

 子どもが遊んでいる声を背中に聴きながら、ひとりでお弁当を食べるのは辛い。なによりその親子に申し訳ないし、恥ずかしい。こんな人間の姿は子どもに見せるべきではないからである。子どもを取り巻く世界は、少なくとも子どものうちは明るくなければいけないのに、おかしな時間にぼっちで弁当を食べている奴が空間を共有してしまっている。今まで私を受け入れていた、そう思っていた場所は、いまや私を拒絶している。そんな感覚である。ちょっと離れたところではカップルが寝ころんでいる。変わっちまったな、ホント。攻撃しようのない、完全で完璧な「幸せ」は、私のような孤独感を拭いきれない人間にとっては猛毒なのに。眩しすぎる、直視してはいけない太陽と同じなのである。

 

 翌日もそこしか場所がないので訪れたら、おっさんが芝生で寝ていた。一人でずっとうなだれている人もいた。当然、子どももはしゃいでいる。空間の役割というものは、そんなにすぐには変わらないのである。いまは、この空間が「陰」から「陽」へ転化する過渡期なのだろう。ならばいずれ完全に陽へ転化したとき、私たちはどこへ行けばいいのだろうか。今はまだ、いても許されるような気がするが。あるいは、我々のこの空間への認識のアップデートされなさに軍配が上がり、陰と陽が空間を共にしながらも交じり合わないという、現在の姿で固定されるかもしれない。私たちは平行に生きている。故に干渉せず、交じり合わず、ただ空間だけを共にしている。社会とは、世界とはネットカフェと同じなのかもしれない。ギュモッってする、黒光りする座椅子の上。