ゆかりちゃんマンハウス

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社会内持ち込み不可につき-2023/07/18日記

2023/07/18

 

 火曜。夏休みが近い。暑さによる疲れなのか、精神的な摩耗による疲れなのか。とにかく、1日に必要なエネルギーが足りない。別に夏に何かを期待している訳でもないし、夏休みが輝いて見えるわけでもない。シコッたらやってくる睡魔が1日を終わらせる。

 

 今日は久しぶりに人と話した。ゼミの日だから。頭の良い人との会話で面を食らわない偽装と、食らいつく偽装を身につけた。去年までは、「大学生」ではなかったような気がするぐらいに、今はアカデミックに所属しているという感覚がある。自分の意見が憚られないという安心が、この空間にはある。バカにせず、めんどくさがらず、きちんと返してくれる。孤独の不安から、周囲の不真面目さに迎合されたかったために自分自身を偽る必要も、もうない。留年して、どうしようもなく1人を強いられているからである。もっと早く気付けばよかったという悔恨と、周囲との関係がある限り辿り着けなかった境地であるという確信に板挟みにされる残り時間。

 

 もう、学期の半分が終わろうとしていることに非常に、焦っている。どうせ誰も見ていないから恥もせず書くけれども、卒業して、社会に出るまでにこの自意識に報われて欲しい。早い話が、インターネット上で「すぎふじゆかり」が認められるということを、この1年のうちに完遂しなければいけないのである。さもなければ、この過剰な自意識を、煮え切らなかった自意識を保持したまま生きることになる。

 

 相応の努力をしていないという自覚も当然ながら、ある。絵を毎日欠かさず練習している訳でもなければ、この日記すら、毎日更新することをやめてしまっている。一般人に成り下がるという表現は失礼かもしれないが、少なくともこのままで社会へ出るのは本当に危険なのである。自分から社会を受け入れる覚悟を持つためにも、絶対に「すぎふじゆかり」は成仏されなければいけない。「すぎふじゆかり」を有名人にしなければいけない。でなければ、社会に、人生に立てないような感覚がある。内面の猛獣を、社会に持ち込むわけにはいかないのである。こんな自意識は、なにがどうあっても迎合されない。社会生活を人並みに営める「一般人」というメンタリティと、「すぎふじゆかり」は共存できない。社会的責任さえ、いまの状態では持つべきではないし、持つ自信がない。

 

 図太い勘違い野郎である。自虐ではなく、客観的事実として。しかして、これはどうしようもなく思っていることであって。他の人も同じように考えて20代までを過ごしていると思っていたが、そんなことはないらしい。現実を直視しようと努力をしているし、私みたいに22になってまで引きずっている人間はどうしようもない。どうしても現実と自己実現を切り分けることができない。折り合いをつける才能、無関心でいられる才能、思考停止する才能が、みごとに欠損していることに失望する。尊大なのだろう。それは周囲から認められず、輪の中に入れなかった原初体験が、恐怖体験が、どうにかして自己を防衛しようと内面が画策したものの影響だろうか。過去のことなど、どうとでも言える。親に、同級生に、大人に、自分にさえ、責任転嫁はできる。これは無意味な意味づけであるが、心を保つには非常に便利に働く。要するに逃げであり、都合のいい解釈である。

 

 

 暑さで思考は弛緩するかと期待していたが、焼きあがるまでの残り時間のように感じられ、最近になって余計に焦っている。「これをすれば」というものを見出しているわけでもなく、脳内にしか明瞭に存在しない一次創作など誰に見向きもされないのは当然であろうが。

 

 深刻に考えすぎなのかもしれない。社会という大渦の渦中に飛び込んでいないというだけかもしれない。もしかしたら、社会は生命を脅かす大渦ではなく、市民プールである可能性すら、確かめていない。ただ、そこに「いていい」という自覚が育まれなかった。だから怖いのである。恥をかくのが怖い。責任を負うのが怖い。人と話すのが怖い。「関係」が怖い。あーーーー、順当に、精神が育って欲しかった。順当な成長を遂げた人間は、こんなことすら考えないのだろうか。本当に羨ましい。

 

 知らねーよどれも。黙れアホ。「分かってたまるか」ということに、自我の根を張ることでしか存在を確かめられないならどうしようも、共感もクソもないだろうが。分かってるが、分かっていない。成長とは。承認欲求はないのですか。自己満足というのなら、インターネットから消えなさいよアータ。他者、他者、どこまでいっても、強烈に、鮮明に自己の存在を確かにさせてくれるのは他者なのである。自分で自分を定義しきれるくらいの主観の強さは残念ながら持ち合わせていない。だから揉まれたい。揉まれなければいけない。それは知っている。知っているというだけ。ただ、この「現在」の自我も同時にいやそれ以上に、自己の拠り所となってしまった。「俺はいいけど、SUGIFUJIがなんていうかな」と言えたなら。たとえそれが偽装であっても、言い切れたなら。

 

 

 そんなことを歩きながら考えていたら、自分はどこに目線をやって歩くのが正解なのかが分からなくなった。車が走っているのとは反対に目を逸らしてしまう。正面を正面として捉えられない。端っこに黒の目玉が勝手に移動する。なんなら斜め下。斜視になってしまったのかと本気で不安になった。寝ころびながらエロ動画を見ていたせいで。

 

 サングラスでもかければマシになるんですかね。