ゆかりちゃんマンハウス

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折に触れて思い出す-2024年1月2日日記-

 今日は大きめのブックオフなどに出かけた。案の定人、特に家族連れがめちゃくちゃ多くて落ち着かなかったが、

「こいつらは今後、いつかの子ども時代にこのブックオフに連れていってもらった記憶があり、本当は欲しかったけど親に言えなかったもの(特にエロ方面)の記憶とかを抱きしめて生きるのだろうか」

と考えると、この世界もまだ捨てたもんじゃないなと思えてきた。

 

まずはCDのコーナーからと思って鈴木雅之とかイエモンとかwinkとかのアルバムを眺めている間に、連れは店内を一周済ませてしまっていた。こっちはまだ本もフィギュアも見てないのに。こうなるから一人で行くのが絶対的に気が楽なのだが、とはいえボソボソと知識をひけらかしながら商品を手に取る時間を共有したいというほうが正直な気持ちであって。

 

 まったく話が変わるが、「ひょっとしてあの人は自分のことを喋ってるんじゃないか」みたいな意識が、いつからかは知らないが昔からある。忘れられないのが高校3年生の時、大学のオープンキャンパスに行くためにそこの最寄り駅から出ようとした瞬間に、溜まってくっちゃべってた学生に「あいつ淫夢厨みたいな顔してる」と人を傷つける前時代的な笑いの生贄にされたという出来事。内実共に当時は淫夢厨であったし、淫夢を同級生の誰よりも遅く知ったにもかかわらず誰よりも詳しい奴になっていた。それは置いておいて、そんなに名は体を表していたのかと思い、より自己嫌悪が増した。

 

 去年(年をまたいだ直後なので「去年」と書くことが気持ち悪い)は地元で駅まで歩いてるときに通りすがった小学生集団から「チー牛」という言葉が聞き取れて悲しくなった。自己弁護や現実逃避とかではなく、たまにイベントとか平日昼間のブックオフで見かける「極(きわみ)の者」とは全然違うのだが。先述の出来事以来、かなり身なりには気を遣うようになったのに。メガネをかけてるってだけだろうがそれは。的外れで安易な例えツッコミをするのはめちゃくちゃダサいことだと義務教育の段階で必修で教えるようにしたらどうなんだ。

 ただたまたま会話の流れと私の歩行速度が宇宙的にマッチングした結果の出来事かもしれないので、やはり被害妄想の域を出ない。

 

 視界に人間を捉えるたびに「ひょっとして」と考えてしまう日というのもごくたまにあるのも事実。そういう日はめちゃくちゃ調子が悪い。いま自分の髪型がおかしくなっていないかだけが気になり続けてもういっそ今すぐハゲになりたいと思ったりする。あと電車とかバスで自分の隣にだけ空間が開いてると自分が臭いんじゃないかということがかなり気になる。これは割とあるあるだと思うが。

 

 ただ不思議なことに、誰かといるとそういうことが気にならなくなる。むしろ気が大きくなって通り過ぎるヒトやモノに友人にだけ聞こえるくらいの声でボソッと攻撃(ツッコミ)をし始め、ボケたくもなる始末である。自分でも調子が良すぎる昆虫野郎であると思う。その上、相手がボケてもこっちはツッコむ気が湧かない(詳しく書くと、「ツッコミが来る」という前提でのボケをされちゃうと、「その方程式に自分は乗りたくないんだが」という感情が優位になる。わかる?)。私の両キンタマで数えきれる数少ない友人に対してはここ最近、なぜ私に愛想を尽かさないのかと不思議でたまらない。自分のことを書いているのに、普通にめんどくさい奴すぎる。分身して、ミニコントをし続けながらそいつと共に一生を終えるしか幸せになる方法がないような気さえしてくる。そうか?