ゆかりちゃんマンハウス

ツイッターは @yukari_SGFJ

「マキバオー」が解けたころ【例えばの話】

はじめに 

 今週から、毎週金曜日に2000字以内の文章を書こうと思います。ゆかりちゃん新聞等のコンテンツ拡張が目的です。【例えばの話】と題して思いつきでフィクションを作っていきます。

 

マキバオー」が解けたころ

例えばの話。

 帰宅。「これ。書いといてね」──離婚届。結婚して3年。妻から告げられた。理由は、たぶん、いや、確実に俺の不倫だ。バレていた。

 

 俺は小さいころから、「ありがとう」が言えない。親しい人であればあるほど、言えなくなる。特に家族。姉にお茶を汲んでもらったときも、親にゲームを買ってもらったときも、家族で誕生日を祝われたときも、「ありがとう」は不自然に口から出た。

 何故かは、自分でもよく分からない。恥ずかしいからなのか、プライドがそうさせるのか。両方の可能性も十分ある。俺にとって「ありがとう」は、有料のイメージがあるのだ。こう、なんというか、自分の“心銀行”から“心貯金“を切り崩して空気を振動させ、届けなくてはいけない感じと言ったら伝わるだろうか。

 

 ちなみに、「ごめんなさい」は無料だ。その上、大体のことを許してもらえる魔法の合言葉だ。機動戦士Zガンダムのウォン・リーの名パンチラインに、「つべこべつべこべと!なぜごめんなさいと言えんのだ!」というのがある。主人公カミーユが組織の一大出資者から殴られ、プライドを捨てろと諫められるシーンだ。もし、あの場面で俺がカミーユなら、すぐさま謝罪する。プライドが傷つくよりも殴られるほうが嫌だからだ。しかし、セリフが「なぜありがとうと言えんのだ!」だったら?俺はたぶん、ウォン・リーに殴られているだろう。この違いは本当に何なのだろうか。

 だから、いつからか家族や、心を許せる人に対して「ありがとう」の母音、「あいあおう」で韻を踏んで、「マキバオー」と言って誤魔化してきた。もちろん、発音は「ありがとう」だ。これは裏を返せば、「あなたを信頼しています」という自分なりのサインでもあった。

 

 まだ、妻と結婚する前のこと。お互いなんとなく結婚を意識し、同棲を始めたとき、妻がゴミ出しに出てくれた日があった。自分のゴミは自分でやると言っておきながら、半ば職務放棄気味だった俺を見かねてのことだ。「ついでだから、出しておいたよ」と言われ、やけに恥ずかしい気持ちになった。そのとき、初めて俺は「マキバオー」と伝えた。「ありがとう」から、関係性が進化した瞬間である。当然、向こうは「へ?なにw」という反応。その日から、「マキバオー」を使うようになった。妻も、次第に感謝の言葉として受け入れてくれ、調子を合わせてくれた。大感謝を表すときは、「マキバオー」に「バオー来訪者」をくっつけ、「マキバオー来訪者」。妻の発案だ。

 

 結婚して2年目が過ぎた去年、「そろそろ家族なんてどう?」と妻。確かに、結婚してもう2年。家族計画について、そろそろ真剣に向き合うべきだ。それから、夜の営みに避妊具は使わなくなった。妻はふざけて「膣内射精大感謝」と書いて「マキバオー来訪者バルバルバルばりゅううううぅ」なんて言っている。そんな涙ぐましい努力とは裏腹に、いまだ妻が描いていた家族計画は叶っていない。妻の焦りが目に見え始め、要求が尋常ではなくなった頃には、俺のチンコは勃たなくなっていた。情けないことに、俺の心臓は、いやチンコはこの綱渡りのバランスを保つ胆力を持ち合わせてはいなかったのだ。

 

 タイミングというのは重なるもので、妻の要求に答えられない自分に嫌気がさしていたこの頃、職場の後輩に猛アタックをかけられ、不倫が始まった。不倫は棚に上げ、妻帯者である俺に対し、謎に理解があった後輩ちゃんは必ず避妊具を用意してくれた。俺は勃起していた。それはもうバチバチに勃起しまくっていた。妻がいない間に、何回家に上げたか分からない。密会の度、避妊具を使い切っては補充した。そうしてずるずると、堕落していく欲情と泡沫に見る夢の跡は、ゴミ箱へ吐き捨てられていった。もう、妻に感じていた重圧のことなど、いや、もう俺にとって妻は……。

 

 今朝。「部屋のゴミ、出しといたから。」妻の口からそれを聞いたとき、俺の口からはごく自然に「ありがとう」と、あの日を境に発せられることのなかった5文字がこぼれていた。

気付く。もはや謝罪も、すべて、既に、手遅れだったのだと。